誰もいない学校で,自分だけの新年の祝祭を執り行う。剣道場に自宅同様初穂をお供えし,二礼二拍手一礼。剣道部の発展と生徒の活躍を祈願。それから仕事場に戻って再び二礼二拍手一礼。厳粛な気持ちで明日の仕事始めを迎えられるよう,周辺を片付けながら少し仕事に取りかかる。
自分なりに長年やってきたルーティンは崩せない。いつもそこには「願い」があるからだ。剣道場で行うのは,いつも自分が剣道部を一から作り上げてきた「願い」を確認するためだ。日商でも佐和でも三高でも,いつもゼロから出発して部を作り上げてきた。それは自分自身の「願い」があり,当時の生徒たちの「願い」があり,保護者の「願い」があり,学校全体としての「願い」があり,社会からの「願い」があったからだ。いつも新年になると,それを確認したくなる。
自分に割り当てられた仕事というものは,実はたくさんの「願い」によって成立しているものだ。それは決して自分が「やりたい」ことと一致するわけではない。(一致していれば嬉しいけれど,多くの仕事はそうではない場合が多い。)だけどその仕事というのは,みんなや社会が「あなたにしかできない仕事だからやってよ」と要請してきたものだ(と考えてみる)。「要請される」ということは,その仕事は「あなたならできる」,「あなたこそ適任だ」と期待されているということだ。だからその期待には,無理してでも絶対に応えるべきだ。無理をするから,今の自分を超えた世界を垣間見ることができるのだと思う。(無理が無理なほど無理することはないけれどね。)
くだけた話に例えるとこういうことだ。飲み会に誘われたら絶対に断らないとしよう(実際自分はそうしてきた)。断るとどうなるか。次第に誘われなくなるだろう。そうして遊ぶ機会が減っていく。一人遊びが好きというなら,それはそれでひとつの価値観だが,人から遊びに誘われない人生ほどつまらないものはない。新しい自分の世界が開けない,ということになるからだ。
こうして「弾み」をつけつつ,明日からまた果てしない仕事が始まってゆく。
